☆中泉救院☆
こんにちは
今回は中泉救院について紹介します
暴れ天竜とも言われる天竜川
幕末から明治維新にかけて天竜川の水害は、
政情不安もあり深刻なものでした。
そこへ明治2年(1869年)に、
中泉奉行として前島密(当時・来助)が赴任してきます。
密は水害の惨状を目の当たりにし、
中泉奉行管轄内の約200の諸宗寺院に
窮民の救済の為の救院の設置を要請しました。
諸宗寺院は評議の上、評議所となっていた泉蔵寺(臨済宗)を譲り受け、
慈善救済事業に乗り出します。
救院の運営は、宝珠寺(臨済宗)・万勝寺(臨済宗)・中泉寺(臨済宗)・西願寺(浄土真宗)の4ヶ寺が
中心的な役割を担い、
管内の寺院を地域別に分け組織化し、最寄りごとに月番で運営を行いました。
多い時には50名以上もの人が収容されていた救院ですが、
明治2年(1869年)9月に中泉奉行所が廃止され、
前嶋密が中泉を離れた後は、寺院の協力体制も薄れ、
厳しい経営となっていきます・・・
明治3年(1870年)に青山宙平が経営を引き継ぎ、
500両の下付金を受けながら再建を果たします。
明治7年(1874年)には東海道に面した地に移りました。
明治21年(1888年)に政府による全国的な救済措置が取られるようになり
閉院となります。
磐田駅北口から真っ直ぐに進むと
道の端に移転後の救院跡の碑が設置してあります
社会福祉の先駆けとなる事業として評価されている「中泉救院」。
お散歩ついでに救院跡の碑を探してみてはいかがでしょうか??
SÅKURÅ
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